夢見る精神障害者

アスペルガー症候群なのか、統合失調症なのか、医者によって見解が違うのですが、今は両方の疾患名を持っています。 精神疾患にまつわるお話を綴りました。

私の学生時代6

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こんにちは、謙児です。

「頼むから2浪してくれ」

父が言ったその理由を知ったとき、私ははじめて「精神的不調」

を感じました。それほど長い時間は続きませんでしたが・・・

それは、病気で入退院を繰り返していた弟の命のともし火が、

まさに消えんとしていた、その事実をはっきりと教えてくれ

たからです。病名は脳腫瘍とのことでした。

小さな頃から、私を慕ってくれていた弟でした。

その最期を見届けるために、父は東京に行くのは2年待ってくれ、

父の弟に対する、最後の愛情だったのです。

なんか、今思い出して書いていると、私も改めて涙が出てきました。

医者の告知通り、弟は高校に行くこともなく、わずか15歳で

他界しました。不思議と私はそのときはあまり悲しさを

感じませんでした。何故かはわかりません。

今ならば、いくらでも涙を流して悲しんであげられるのに、

その時に本気で悲しんであげられなかった自分に、今でも

後悔しています。

ただ、弟がいつも側で先祖と共に私を守ってくれているんだな、と

時折感じることが今でもあります。

まあ、「そんな気がする」というレベルではありますが。

葬儀のとき、弟のクラスメイト全員が参列してくれました。

担任の先生が、立派な弔辞をあげてくれました。

いいお葬式でした。そして、よくできた弟でした。

今なら、それがはっきりとわかります。

弟を悲しませないためにも私は生きるんだ、今は強く

そう思っています。

だから、私はこの悲しみを思い出すことができる限り、

こんな体になっても本気で自殺することはないでしょう。

私は、亡き弟のために、懸命に生きねばならない、

それは私の使命でもあるのです。

ごめんなさい、さっきから涙が止まりません。

男のくせに惨めなものですが。

あれから15年以上経った今でも、仲の良かった友達や

担任の先生が命日には必ず来てくれます。

本当によくできた弟だったと今でも感じざるを得ません。

それなのに、自分は・・・とても情けないです。

ですが、せめてもの償いになれば、とその後私は必死で

勉強しました。

そして翌年、早慶は無理でしたが、東京6大学と呼ばれる

ひとつにやっと合格することができました。

そして、ようやく念願だった東京での生活がはじまりました。

・・・つづく